斗南藩の歴史探究(はじめに)      

松平容大公 三沢市先人記念館 写真提供
松平容大公 三沢市先人記念館 写真提供

斗南藩

 斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)11月3日に容保(かたもり)の嫡男・容大(かたはる)に家名存続が許され、翌年の明治3年(1870 年)1月5日に旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれ成立した藩である。「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとっ たもので、当初は三戸藩といったのを改めたものである。

 会津藩を没収された会津松平家は、改めて元南部藩領の北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられた。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉 沢平治右衛門の指揮のもと300名が八戸に上陸した。藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、五戸に向かった。旧五戸代官所が 最初の藩庁になり、後に現在の青森県むつ市田名部の円通寺に移った。

 

 また北海道後志国の歌棄(うたすつ)・瀬棚・太櫓(ふとろ)及び胆振国山越の計4郡も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人で あった。表高は3万石となっているが、藩領は不毛の地であり、実高7千石に過ぎなかったと言う。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用す ることが出来なかった。このため生活は過酷を極め、移住した藩士の中には娘を妾や女郎として売ることを余儀なくされたり、飢えと寒さで命を落とすものが多数続出したと言う。

 その後、斗南藩は明治4年(1871年)の廃藩置県で斗南県となり、その後斗南県少参事廣澤安任らによる明治政府への建言により、同年のうちに弘前県・ 黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県に編入された。また、一部たる二戸郡は岩手県に編入された。

 廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、大多数が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年(1872年) に広沢らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ郡 長・県会議員・町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。

 藩主:松平容大(まつだいら かたはる)〔従五位 知藩事〕

 

 

【参考文献】ウィキペディア 

 

   青森県十和田市の伝法寺に、会津藩家老の西郷頼母と講道館の四天王と呼ばれた西郷四郎(姿三四郎のモデル)がいた史実を知ることができた。日本の時代の流れを変えたこの2人の人物の足どりを追ってみた。

                             

  戊辰戦争の終結


 会津では「戦争に負けた」とは、戊辰戦争で薩長(新政府軍)に敗れたことをいう。第2次世界大戦で敗れたことではない。この敗戦ほど会津人にとって痛恨と怨念に満ちたものはない。130年がたった今でも、この悔しさをぬぐい去ることはできないだろう。
 明治は、倒幕の実現によって誕生した。その後、明治政府は「富国強兵」「殖産興業」という政策により、軍国主義の道を歩み始めた。こうしてこの100年 間で幾多の戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出した。日本の悲劇は幕府を倒したときから始まっていたのではないだろうか。

西郷頼母 天保元年〜明治36年 

 名は近悳(ちかのり)、初称は源蔵。家老・頼母近思の長男。家録千7百石を継いで家老となったが、藩主容保が京都守護職就任に際して「国力の及ばぬ事」を理由に強く反対したため、家老職を免じられた。
 以後5年間、長原村に閉居していたが、慶応4年に復職し、鳥羽・伏見の戦いに敗れて会津に帰ってきた容保に、和議恭順謝罪すべき旨を進言した。しかし、 主戦論をくつがえすことはできず、やむなく総督として白河方面に従軍して抗戦した。白河城が陥落すると若松に戻り、再び講和のために和議恭順説を主張した ため、主戦派から城を追われるかたちとなった。しかし頼母は、主君容保の汚名をそそがんとして米沢から仙台に至り、さらに函館の五綾郭で西軍と最後まで 戦った。降伏後、館林藩に幽閉されたが明治三年に赦され、青森県に移住(斗南藩)したが西郷家は御取潰しとなり保科近悳(ほしなちかのり)として、現在の 十和田市伝法寺に在籍した。明治14年の旧斗南藩人名録には、東京寄留(明治8年10月)となっている。
 明治13年には容保が宮司となった日光東照宮の神職をつとめ、20年に若松に帰ってきた。明治36年4月28日に亡くなっている。74歳。

 

新斗南藩の消滅

 明治2年の藩籍奉還によって大名の領地は朝廷に返上されてはいたが、実態は藩知事と名を変えた藩主が旧領を治めていることに変わりがなかった。そこで政 府は完全に封建制を破壊するために、廃藩置県を断行した。これによって青森県に存在していた弘前・黒石・七戸・八戸・斗南の諸藩はそれぞれ県に改められ た。
 そして、藩と旧藩主を切り離すため、旧大名はすべて東京に召還された。斗南藩知事だった容大も東京に移住となった。このときの容大が斗南の人々との別れの挨拶をしたためた手紙が今でもむつ市に残っている。
 その後、9月4日に斗南藩は他の諸藩とともに弘前県に合併され、同月23日、さらに青森県と改称された。こうして斗南藩は、わずか1年数カ月にして消滅してしまった。

西郷四郎 慶応2年〜大正11年

 小説「姿三四郎」は、昭和17年に直木賞作家の富田常雄によって著された。近代日本の揺れ動く社会背景の中、主人公の三四郎が、伝統的な柔道界を、新し い技「山嵐」で活躍するストーリーは、ベストセラーとなった。巨匠黒沢明監督による映画も上映された。主人公の三四郎は、会津若松城下で生まれた西郷四郎 がモデルだった。四郎は、慶応2年会津藩士志田貞二郎の三男として生まれた。明治15年8月10日四郎は、代用教員を辞めて陸軍士官学校の予備校成城学校 へ入学するが、学力不足であったことなど、士官を断念せざるを得なかった。講道館(館長・嘉納治五郎)に入門する。四郎は小兵ながら天性の素質と激しい稽 古で頭角を表し、明治16年に講道館初段となる。

保科近悳(西郷頼母)の養子となる

 明治17年5月14日(十九歳のとき)、当時斗南藩として現在の青森県十和田市の伝法寺に戸籍のあった会津藩家老を勤めた元西郷頼母、後に保科近悳(ほ しなちかのり)の養子となり入籍、保科四郎となる。西郷頼母は、会津藩秘伝の大東流合気道柔術の継承者で、柔術の達人でもあった。講道館の四天王といわれ た志田四郎を大東流の継承者としてふさわしい人物と見込んだものと思われる。

 

西郷四郎 慶応2年〜大正11年

 小説「姿三四郎」は、昭和17年に直木賞作家の富田常雄によって著された。近代日本の揺れ動く社会背景の中、主人公の三四郎が、伝統的な柔道界を、新し い技「山嵐」で活躍するストーリーは、ベストセラーとなった。巨匠黒沢明監督による映画も上映された。主人公の三四郎は、会津若松城下で生まれた西郷四郎 がモデルだった。四郎は、慶応2年会津藩士志田貞二郎の三男として生まれた。明治15年8月10日四郎は、代用教員を辞めて陸軍士官学校の予備校成城学校 へ入学するが、学力不足であったことなど、士官を断念せざるを得なかった。講道館(館長・嘉納治五郎)に入門する。四郎は小兵ながら天性の素質と激しい稽 古で頭角を表し、明治16年に講道館初段となる。

保科近悳(西郷頼母)の養子となる

 明治17年5月14日(十九歳のとき)、当時斗南藩として現在の青森県十和田市の伝法寺に戸籍のあった会津藩家老を勤めた元西郷頼母、後に保科近悳(ほ しなちかのり)の養子となり入籍、保科四郎となる。西郷頼母は、会津藩秘伝の大東流合気道柔術の継承者で、柔術の達人でもあった。講道館の四天王といわれ た志田四郎を大東流の継承者としてふさわしい人物と見込んだものと思われる。

新天地斗南への第一陣しして三戸へ到着した渡部虎次郎
新天地斗南への第一陣しして三戸へ到着した渡部虎次郎

 

斗南への移住

 会津藩の新しい藩名は「斗南」と命名された。この命名には諸説があるが、「北斗以南皆帝州」から採られたというのが定説になっている。
 つまり、北にある北斗七星より南の土地は、すべて天皇の治める国土であり、我らも天皇の民である。というのだ。そして、明治3年4月から旧会津藩士とそ の家族の1万7千人の大移動が始まった。会津から青森県の斗南までは約590キロもある。東京から、越後高田から、そして会津から、海路や陸路を辿って彼 らは北へ北へと向かった。政府から支給された路銀は乏しく、食うや食わずの苦しい旅だった。
 斗南の藩領は現在の下北半島と五戸郡・三戸郡だった。ふたつに分断された藩領の間に、南部の支藩である七戸藩と八戸藩が挟まっている。
 そしてようやく辿り着いた斗南で、彼らは初めて愕然とした。そこは表向きは3万石といっても、実質は7千5百石ほども見込めない不毛の地だった。御家再 興を許されたとはいっても、実態は会津藩そのものを流刑にしたに過ぎないことを、西郷らは思い知らされたにちがいない。

新天地での生活

 斗南藩庁は、とりあえず五戸の南部藩大官所があてられ、この9月、2歳の松平容大も会津から五戸に着いた。そして翌年4年2月、新たに藩庁となったむつ 市田名部にある円通寺に移った。新政府は諸藩の職制を改め、従来の家老に代わる大参事、小参事という役職を置くように指示していた。それに従い、新生の斗 南藩も職制を改め、山川浩が大参事、広沢安任(やすとう)・永岡久茂らが小参事に就任して、わずか2歳の容大を補佐して斗南藩政を指導していくことになっ た。西郷頼母は当時上北郡五戸の隣の伝法寺に住まいすることになる。

 

戊辰戦争の終結

 会津では「戦争に負けた」とは、戊辰戦争で薩長(新政府軍)に敗れたことをいう。第2次世界大戦で敗れたことではない。この敗戦ほど会津人にとって痛恨と怨念に満ちたものはない。130百年がたった今でも、この悔しさをぬぐい去ることはできないだろう。
 明治は、倒幕の実現によって誕生した。その後、明治政府は「富国強兵」「殖産興業」という政策により、軍国主義の道を歩み始めた。こうしてこの100年 間で 幾多の戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出した。