プロフィール


アウトドアが大好きなオヤジです(カヌー後ろ)
アウトドアが大好きなオヤジです(カヌー後ろ)

山本 光一 やまもと こういち


自己紹介  1950年生まれ(虎年・AB型)
                住 所: 青森県八戸市

      多趣味・好奇心旺盛・多重人格

                につき誰とでも仲良くなれる。

        

   
職  業  情報誌発行(編集・出版)

 

経  歴  1972年 中京大学 体育学部 卒業

 

(2012年4月 現在)

 

  1. NPO法人青森県福祉サポート協会      理事長

  2. 東北巨木調査研究会             副会長・事務局長

  3. 八戸市緑の審議会              委員

  4. ウォーキングクラブMTC21                顧問

  5. 清遠短歌会               事務局長

  6. 竿名会(渓流釣り)           事務局長

  7. 斗南藩歴史研究会              事務局長

  8.青森県古時計研究会          事務局長

  9.HUMANBANDあおもり        事務局長

10. 環境省・十和田八幡平国立公園

  十和田八甲田地区パークボランティア   会員

 

   

昭和天皇ご行幸の記念の写真(祖父 山本由太郎)
昭和天皇ご行幸の記念の写真(祖父 山本由太郎)

山本家の人々

 

 山本家の祖先は、徳川時代にどこからか逃れてきた武士であったらしい。田子町からさら に山に入り込んだ野畦沢(のくろさわ)という集落の山の奥に隠れ住んでいたという。その場所は草に埋もれ、井戸の痕跡がかすかに残っているだけである。古い墓の中には武士の名前と思われるものが数基あった。古い実家には鎧や刀があったのを記憶している。お寺には由緒ある祖先の史料もあったが火災のため焼失してしまった。


 山本家は長生きの系統のようである。明治時代においても80歳代〜90歳代がたくさんいた。ちなみに明治33年に亡くなった山本六兵衛は、この時代には珍しい六尺(180㎝)の豊かな偉丈夫で96歳であったという。


 祖父は九州の宮崎県庁に勤務時、県庁を代表し昭和天皇ご行幸の先導の大役を仰せつかる栄誉をいただく。

 記念写真の腕章に「ご行幸」の文字が見える。


 写真が普及していなかったため、祖父以前の写真は無い。

学徒出陣で海軍航空隊に入隊 
学徒出陣で海軍航空隊に入隊 

 父は斗南藩士の末裔であった井口信雄校長の薦めで、昭和13年教師への道を志して青森師範学校へ入学する。しかし、ゆっくりと勉学に励める時代ではなかった。この年、国民総動員法が発令。翌年には第2次世界大戦が勃発。昭和16年日米開戦、真珠湾攻撃があった。勉強どころではなく、毎日が勤労奉仕や消火訓練で追われた。

 父は学徒出陣で海軍航空隊に志願した。青森師範学校長の井東校長はその忠願に反対し、厳しく諌めてくださったという。

 

 最初、台湾高雄海軍航空隊で練習機に乗り訓練をする。次に大村海軍航空隊に配属となり零戦に乗る。

 ここで海軍少尉に任ぜられる。次の明治航空基地において、海軍特攻隊に志願する。宮崎航空基地に配属となり紫電改と出会う。その後、鹿屋航空基地に転属、最終的に紫電改の基地、四国の松山航空基地に配属となる。

終戦時 山本一好 22歳
終戦時 山本一好 22歳

紫電改戦闘機隊「剣部隊」の戦闘407天誅組に入隊

 

 軍令部の航空主務参謀・源田 実大佐が、自らが司令となり制空権の奪回を目的として精強な航空部隊の編成を計画。比島で戦力を消耗していた戦闘301・407・701を召集して編成し、昭和19年12月25日に松山基地で開隊。昭和20年 2月 1日には偵察第四航空隊を編入し、生き残っている優秀なパイロットを松山に集結させ新型戦闘機・紫電改に搭乗させる。隊は維新組、天誅組、新撰組の3隊に分けられた。父は「天誅組」に配属となり参戦した。

最新鋭機の紫電改戦闘機
最新鋭機の紫電改戦闘機

松山上空の空中戦


 昭和20 3 月19日、松山基地を飛び立った偵察機「彩雲」より、「敵機動部隊見ユ、室戸岬ノ南30浬」「敵戦爆連合大編隊、豊後水道ヲ北上中、高度三千」との情報が 相次いで入電。直ちに、松山基地より54機(維新隊16機、天誅隊17機、新撰組21機)の「紫電改」が発進、松山上空において呉方面に飛行中の敵編隊と 激しい空中戦を展開した。 

第三四三海軍航空隊 源田実司令の元で参戦
343空で使用された「紫電改」。紫電改展示館(愛媛県愛南町)
1944年(昭和19年)末、源田は、制空権を獲得できないこと、つまり戦闘機隊が負けていることが戦争に負けている原因とつくづく考えて、制空権を獲得して米の攻勢を食い止めることを期した第三四三海軍航空隊を提案し、認められて12月25日に編制されると、1945年(昭和20年)1月15日、自ら343空司令に就任し、1月19日に松山基地に着任した。
343空は、戦闘機「紫電改」を集中配備して、編隊空戦、情報、通信を重視した源田の構想のもとで訓練された精鋭部隊として有名である。

天誅隊(三列目・左より4番目が一好)
天誅隊(三列目・左より4番目が一好)

 確認された戦果は撃墜57機(対空砲火による撃墜5機)、343空の挙げた最大の戦果であった。当方の損害は自爆16機、大破5 機であった。紫電改部隊の活躍は素晴らしくアメリカ空軍は航路を松山基地上空を避けてとおるほどで、昭和の終わり頃には三船敏郎・加山雄三などが出演する「太平洋の翼」という映画になったほどであった。

父は特攻が決まり宮崎で祖父と最後の別れをした
父は特攻が決まり宮崎で祖父と最後の別れをした

 

神風特別攻撃隊


 3月末、米軍の沖縄上陸に伴い343空も鹿屋基地に移動、本土防空と神風特別攻撃隊(神雷部隊)の直掩を主任務とした。紫電改戦闘機隊の精鋭たちにも最期の時が訪れていた。父にも終戦近くには特攻隊で出撃が下されたので、宮崎県庁に勤務していた祖父に最後のお別れにいく。だが出撃直前に終戦を迎えた。

そのとき父は22歳、海軍中尉であった。

 

教育の道を選ぶ

 

 終戦後は故郷に帰り教師となる。恩師・井口信雄校長の仲人で母と結婚する。最終勤務地は八戸市下長中学校で校長を務めた。2012年5月現在 89歳。

 


終戦後も、毎年戦友の会合が持たれていたが高齢になり存命している人が少人数になり解散となった。

その会合で源田実氏(右)から酒を注いでもらう父(中央)。

家紋は「三つ巴」
家紋は「三つ巴」

家 紋

 

 山本家の家紋は、 右三つ巴。巴とは水が渦を巻いている形をあらわしている。この渦巻を火災予防のお祝いとして、民家では屋根瓦や土蔵などに用いていることが多い。しかし、 巴にはもっと深い意味がある。武士の弓手に巻く革具・鞍(とも)から、また、古代の宝器であった勾玉が巴形で、これが神霊のシンボルに移転したこともこの 紋が広がった要因のようだ。