推定樹齢1000年 七崎神社の「神の杉」
推定樹齢1000年 七崎神社の「神の杉」

 

新撰陸奥国誌 

 南祖坊伝説については齊藤利男(弘前大学教授)氏は、「霊山十和田と十和田信仰」の中で、また弘前大学院の尾樽部圭介氏は2011年3月23日付の調査研究で南祖坊の存在や活動の実態を報告している。また、五戸町の豊間内小学校の校長木村明彦氏は十和田湖を霊場として南祖坊という修験一派が開山したという説を「五戸・豊間内 歴史点描」内で発表している。それらの研究を参考にしながら紹介したい。


 南祖坊は現在の青森県三戸郡斗賀で生れ、八戸市の豊崎にある七崎神社で修行した。七崎神社は修験の大規模な拠点寺社で、南祖坊修験一派が実在していたと云う。これは明治以前、明治天皇御巡幸を控え県がまとめて国に提出した地誌「新撰陸奥国誌」に描かれている明治9年頃の記録で、江戸時代の様子が分かる史料である。


 一派は七崎神社を拠点に、神秘的な十和田湖周辺を霊場・修験の地として開山するとともに、そこに至るまでの参詣道もつくっている。地蔵平に座する豊間内にある十和田碑(江戸後期)もその影響を受けている。 南祖坊の十和田開山の時期は、大同2年より後でイメージとして平安時代末期。平泉の時代と云うから900年以上前のことである。

 

みちのく蔵書(5巻)新撰陸奥国誌(第5巻25P)八戸市立図書館 蔵
みちのく蔵書(5巻)新撰陸奥国誌(第5巻25P)八戸市立図書館 蔵

 

七崎神社(ならさきじんじゃ)

 この七崎神社は、承安年間(1171年〜1175年)の昔、僧行海が、諸国を巡歴しここにきて、秘法を執行した。そのとき行海は、各地を巡ったがこれほどの霊地はないといって、境内に北斗七星をかたどり7本の杉を植えたと伝えられている。そのうちの3本が今も現存しており「神の杉」と地域の人々に崇められている。

 

  七崎神社は、天長元年(824年)4月、都の四条中納言藤原諸江郷が、時の天皇の怒りをこうむり、流刑の身となって海路八戸に上陸し、八太郎に居を構え漁師となって魚介を獲って暮らしていが、ある日、これまでに見たことのない神仏像がかかり、小社を建立した。その後承和元年(834年)正月にまた見た霊夢によって、ここ七崎山に本殿を改築したという由来が残っている。


 一般に七崎神社というと「樹齢推定千年の大杉(3本・八戸市指定天然記念物)が有名である。この幹の周囲は、地上1・3㍍で約10㍍あり、青森県で最も大きいとされ、推定樹齢千年ということから創建当時からあった杉である。

 

七崎神社の山門
七崎神社の山門

七崎永福寺(ならさきえいふくじ)

 正観音を本尊とし、観音信仰の霊場であったこと、そして修験寺院を持ち修験者を抱える修験の寺であり、周辺の山々に48の末社を有して「御山開」「中の祭」「御留の祭」を重要な祭礼としていた。永福寺はかつて七崎村にあった寺院の名前である。七崎村は現在の八戸市豊崎町に位置し、村内に永福寺という地名も残っている。現在は七崎神社と普賢院が残る。


 七崎神社は『新撰陸奥国誌』には、「当社は何の頃の草創にか究て古代の御正体を祭りたり旧より正観音と称し観音堂と呼なして近郷に陰れなき古刹なり」とあり、里の人々の崇仰も大方ならず、南部(盛岡)藩の尊敬の他の比にあらず、常に参詣する人が絶えなかったとある。


 つまり七崎神社の前身が観音堂であった。別当として普賢院を置き、そのほかに修験善覚院・大覚院、社人十二人、神子一人、肝煎等ことごとく備わっていたとある。明治初年まで観音堂と称し、大規模な寺院を形成していたが、廃仏毀釈により本尊の正観音菩薩像を普賢院に移し、現社名に改めた。


 宝暦(1751―1764)の頃の『御領分社堂』に「観音堂 四間四面萱葺 永福寺持」とあり、盛岡永福寺持とされている。南祖坊とは、その修験僧集団の一人の僧の名前であらわしたもので、「三国伝記」のほか、近世の平泉周辺でも南祖坊が固有名詞でないとも云われている。

 

七崎神社の「神の杉」・僧行海が手植えしたと云う杉の巨木の1本
七崎神社の「神の杉」・僧行海が手植えしたと云う杉の巨木の1本
大杉にかかる彩雲
大杉にかかる彩雲

十和田湖を開山した南祖坊修験一派

 十和田湖は、この七崎永福寺の修験僧たちの活動によって開山された。時期としては平泉時代(千百年代)とみるのが適切である。当時は深山の中に抱かれた 湖であり霊山聖地としてふさわしい世界であった。特に十和田湖中心の中山・小倉半島には修行の場にふさわしい多くの岩山や修験窟、神を安置したとみられる 岩窟も存在する。


 現在の八戸市にある七崎の永福寺が十和田開山の拠点であり、中世には霊山十和田を管理し、「額田獄熊野十瀧寺」(現・十和田神社)を末寺としていたと推測されている。

 

 

「南祖の坊」の口伝

 十和田新報の記事によると、南祖坊が霊山十和田湖に行く途中に十和田市の「森ノ越」の佐藤新太郎家に宿泊したという口伝がある。翌朝大きなエビキリモチ(囲炉裏の灰の中でエビった塩味のソバモチ)を貰って月日山を越え十和田山へ向かったという。


 南祖坊は三戸郡南部町上斗賀にある霊験堂(現・斗賀神社)で生まれた。父は藤原一族の宗善公・母は地元の川村家の玉子姫である。賢かったので僧侶の道を歩む。修行は七崎の永福寺で積んだ。十八歳の時、櫛引当馬の娘と結婚する話が持ち上がった。

 

 「修行の身ゆえ」と断ると、娘は高い崖の上から身を投げ出し亡くなった。そこからは松が生えて「姫の松」と呼ばれたという。現在も斗賀神社は有り、神社裏手の山中には十和田神社があり南祖坊が祀られている。

御倉山は絶壁の岩山である。
御倉山は絶壁の岩山である。
占い場に降りるハシゴ。現在は立ち入り禁止となっている。
占い場に降りるハシゴ。現在は立ち入り禁止となっている。

 

十和田湖の聖地・御倉半島

 昔の人は、なぜ険しい山道を行き、急峻な崖をよじ登ってまでして、遠路はるばる十和田までやってきたのだろうか。それは勿論、十和田神社にお参りするこ とであるが、最大の目的はヲサゴ場(占い場)にあった。武四郎の『鹿角日誌』に興味深いことが記されている。

 

 ヲサゴ場の様子を記した一文に、「則此處より 東向、向方色ある山と云に向て己れか思ふことを心中に念して米銭を包しを此湖中に投するに」とあり、ヲサゴ場でのサング打ちの決まりとして、ヲサゴ場から 色ある山に向かって占いをするということが記されているのである。「色ある山」というのは御倉半島の先端の五色岩のことで山の忌みことばで龍神伝説に由来する。

占い場。南祖坊は龍になり、この場所から入水したと云われている
占い場。南祖坊は龍になり、この場所から入水したと云われている

 『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』には、「御さんご場の仲につぶりとおひねり一ツ浮上り、夫より又一ツ浮上り、又夫よりひとつ浮上り、三度に三御 ひねり浮上りしばし其所にうごかず居しを、扨毛不思儀の事かなと信心して拝み居しに、御山中何となく物凄しんと成し。

 

 それよりこの三ツのおひねりを頭と して引連なり、つぶりつぶりと次第次第に浮上り、其数何万といふ数毛知れす、白布をはへたるごどぐになり、三ツの頭となりたるおひねり御蔵山をさして流れ 行有様、さなから白き大蛇の大海にあらわれ、水上を走るにことならす。

 

 しつしつとしてととこふらす、御蔵山の岸に着とおもえば、神がくれにかくれて見得す 成にけるよし。是はおさんご御賽銭等御蔵山におさまる御霊験のよし」とあり、サング打ちで使われた「おより」が白い大蛇のようになって御倉半島へと流れて いくという物語が人々の間で語られていたことが記されている。

十和田神社の占い場から見た御倉山と赤壁
十和田神社の占い場から見た御倉山と赤壁

 また、「又有時は御潟の沖中に龍の形の御背中をあらわす拝ませ給ふ時もあらせらるる事も有よし」ともあり、龍神の姿が湖中に見えたとも記録されている。

 

 このように十和田を信仰する人々に様々な御霊験があったことが記されている。いずれの霊験にも龍蛇が関わっており、「おより」が流れていく様子を白い大蛇に 例えるあたりは、信者の龍神に対する信仰の厚さを感じさせる。このように、御倉半島は龍神や大蛇、占いや霊験といったものと強く結び付けられていた。


 これらのことから、中湖から御倉半島の一帯は人が めったに立ち入らない神秘の霊域であり、信仰の中心であったと考えることができる。御倉半島の崎に位置する御室が十和田神社の奥の院とされたのも、御倉半島が信仰の中心であったからこそである。

 

 ヲサゴ場から御倉半島へ向かってサング打ちを行うのは、「御倉」という名が示すとおり御倉半島が「神宿る岩」で あったからである。ヲサゴ場から中湖にかけての一帯は、単に南祖坊が入水した場所というだけではない。

 

 ヲサゴ場は人が立ち入ることのできる場所の中で最も御倉半島に近づくことの出来る場所であり、ここからでなければ御倉半島の御室や色ある山をその眼下に納めることはできなかった。人々はヲサゴ場まで来てよ うやく神に対面できるのであり、それだけに神秘的な霊験を得られると信じていた。

雨の化石(火山豆化石)。この時の噴煙に雨が降り水滴についた噴煙が化石となったもの。この地域ではあちこちで見られる。
雨の化石(火山豆化石)。この時の噴煙に雨が降り水滴についた噴煙が化石となったもの。この地域ではあちこちで見られる。

 「色ある山」とまで言われた鮮やかな五色岩や自然発生した洞窟、最も水深が深く両半島に囲まれた中湖、御倉半島と中山半島・ヲサゴ場の位置関係など、神秘的ともいえる自然条件や地理的条件が、中湖から御倉半島一帯を神聖視させる土壌となったのであろう。


  なによりも、延喜十五年(西暦901年〜923年)の十和田火山大噴火が人々に与えた影響は凄まじかった。このときの噴火は、噴火マグニチュード7・5、噴火したマグマの量は推定 50億トン、噴火は大規模な火砕流噴火に発達し、夏の東風「やませ」に乗って東北地方のほぼ全域南北200~300キロの範囲内に大量の火山灰を降らせた という。

 

 過去2000年間に日本国内で起こった噴火の中でも最大規模の噴火であった。現在の御倉山はこのときの噴火で形成されたもので、その特異性を考え ると信仰の中心となり得たのにも納得する。

 

十和田神社
十和田神社

 

高谷重夫氏(民俗学者)の信仰研究

 霊山十和田そのものを主体とした信仰の研究がなされたものには、高谷重夫氏の研究がある。高谷氏は、十和田山の縁起類・本地物の分類・検証を行い、十和田御縁起の担い手、十和田信仰の内容と性格、の二つの視点から信仰について考察を行っている。

 

 近世後期に入ると十和田湖の龍神伝説が奥浄瑠璃の語り物として多く語られるようになり、十和田山の本尊や御正体の霊験を説く本地物が多く作られた。この点において高谷氏は、これらの語り物を語って聞かせていた者が必ずしも奥浄瑠璃の座頭の坊ばかりとは限らず、山伏や修験の徒がその語りに携わっていたのではないかとしている。

 

 『矢島十二頭記』や『人倫訓蒙図録』などの語り物に修験が携わったことは確かであるから、南部地方においてもかつては語り物をする山伏修験がいたと考えても無理はないだろう。

御倉半島中腹から見た中山半島
御倉半島中腹から見た中山半島

 そして高谷氏がこのように龍神伝説と修験・山伏とを結び付けて考える第一の理由は、まず主人公の南祖坊に修験の面影が色濃くにじみ出ていることである。

 

 『十和田記』には、南祖坊が廻国修行をしたり、加持祈祷を行ったり、熊野権現へ三十三度の参詣をしたなどの話があり、その全てに修験の特徴が色濃くあらわ れている。第二の理由には、南祖坊の誕生と因縁があるとされる寺院が、修験と深い関係があったということである。

 

 近世後期に作られた本地物では、南祖坊の 出自を青森県三戸郡南部町(前・名川町)斗賀で生まれ八戸の永福寺に入って学問をしたとされている。これら斗賀観音堂や七崎村永福寺といった寺院の修験が 十和田山御縁起の唱導に携わったのではないかというのが高谷氏の考えである。

御倉山は断崖絶壁で人を寄せ付けない威厳がある
御倉山は断崖絶壁で人を寄せ付けない威厳がある

 

修験道開祖

 

 修験道は平城京に都があった奈良時代(710年〜794年)に成立した。開祖は役小角(えんのおづの)、または役行者(えんのぎょうじゃ)という呪術者である。役氏は当時大和国や河内国に多数存在した一族で、役小角は実在した人物らしい。しかし、修験道の開祖としての人物像などは後に創られたという。役小角は634年に現在の奈良県御所市に生まれ、現在はその地に吉正祥寺が建立されている。

 

 孔雀明王の呪法を学び、熊野や大峯の山々で修行を重ね神と仏の調和を唱え、修験道の基礎を築いた。役小角は20代のころ、呪術で藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の病気を直したと云われている。

 

 修験道は日本独自の宗教で、外国にはない山岳信仰と仏教が習合した信仰である。霊山・深山幽谷に 分け入り、厳しい修行を行うことによって超自然的な能力を得て世を救済しようという宗教である。そして山々に伏して修行する姿から山伏と呼ばれていた。

 

田子町椛山の「蛇王神社」の御神体
田子町椛山の「蛇王神社」の御神体

釈難蔵(南祖坊)と八太郎の伝説

 十和田湖の龍神をめぐる伝説は、菅江真澄の『十曲湖』をはじめ幾多の近世文献に記録があり、奥浄瑠璃の演目にもあるなど、北奥羽の人たちにとってはごく親しい伝承であった。現在も言い伝えとして親しまれ続け十和田湖に関した伝説は数多く残っているが、それだけに物語が多様であり広範囲に広がっているともいえる。

 

 幾多ある龍神伝説の中で、最も古い縁起とされているのが『三国伝記』(インド・中国・日本のお坊さんたちが集まり伝記などをまとめた本)である。


 『三国伝記』は室町時代の代表的仏教説話集である。全十二巻からなり、沙弥玄棟の著、十五世紀前半の成立とされ、十和田信仰が中世まで遡る資料である。 天竺の僧,大明の俗人,日本の遁世者がそれぞれ自国の物語をするという形式で三六〇話を収める。

 

 その第巻十二第十二話「釈難蔵(南祖坊)得不生不滅事」と 題する説話が十和田湖の龍神伝説である。真澄をはじめ、後になって書かれた縁起類のおおくでこの説話が引用されている。話の内容は次の通りである。


 播州書写山に辺に、釈難蔵という法華経の持者がいた。参詣すでに三十度という熱心な熊野権現の信者だったが、生を変えず、弥勒の出世に会いたいと 願い、熊野山に三年間参籠して祈ったところ、千日目の夜、「弥勒の下生に値遇(前世の宿縁によって現世で出会うこと)できるであろう」との夢告があった。さっそくその山に行くと、頂には円形で底知れない深さの池があった。その畔で法華経を読誦していると、年のころ十八、九の女性が毎日現れて聴聞する。

 

 難蔵が不思議に思っていると、女は「私の住処に来て衆生のために法華を読誦して欲しい」という。難蔵が「私はここで弥勒の出世を待っているのだから、よそには 行けない」と断ると、女は「私はこの池の主の龍女です。龍は一生の間に千仏の出世に会うほどの長命な生き物、私と夫婦になって弥勒の下生を待ってはいかが」という。難蔵はなるほどと思案をめぐらし、龍女とともに池に住むことにした。

  

田子町郷土誌資料集の中の、池振にある十和田山の石碑
田子町郷土誌資料集の中の、池振にある十和田山の石碑

田子町からの参道

 

 三国伝記では播州書写山となっているが、実際は田子の伝説が元になって出来たという見方が自然と思われる。その理由は以下からである。

 

1.近世には縁起が多く成立したこともあって、南祖坊という伝説上の人物が南部地方では実在の法印様として民衆の信仰を集めるようになった。それを示すもの に、青森県の田子で生まれた南部利直と南祖坊の逸話がある。南部二十七代の利直は南祖坊の生まれ変わりであるとされた。

 

 利直は盛岡に築城した藩中興の祖 であるから、この人と同格と考えられていたことは、南祖坊の信仰が藩内でも大きな力を持っていたことを物語るものであろう。

2.田子町郷土誌資料集 (昭和28年発行)の中に椛山沼の蛇や龍女についての伝説がある。

 

3.田子町の「弥勒の滝」で弥勒菩薩に会うために修行したという台座が滝の頂上にある。

 

 右の石碑は田子町大字田子字上野上ミ平にあるもの。三つ並んで建っている石塔のうちの左端。「資料集には紀年がないが、「明治十八年」と読める。「主内富邑中」とあるのは、「末九月富邑中」が正しい。 参考 田子町誌・昭和58年5月30日発行 

軽米町「古屋敷の千本桂」の脇の石碑にも十和田山があった。この地からも田子の御山参詣道を通ってお参り行ったものと思われる。
軽米町「古屋敷の千本桂」の脇の石碑にも十和田山があった。この地からも田子の御山参詣道を通ってお参り行ったものと思われる。
昔は不老倉鉱山に向かう夏坂の道路には、この黄鉄鉱がたくさん落ちていた。
昔は不老倉鉱山に向かう夏坂の道路には、この黄鉄鉱がたくさん落ちていた。

4.田子町は山伏神楽が盛んであり、修験者は山伏となり、里では「語り物」や「神楽舞」、奥深山々を歩き、新道を開発するとともに「鉱山を発見」して収入を得ていた。

 

5.山伏たちが見つけた弥勒の滝そばにある不老倉鉱山。江戸時代の天和年間(1681~1683年頃)に当時ここを治めていた南部氏によって銅山として開かれた。十和田湖の地名ともなっている銀山・ 鉛山もそれである。

 

6.上記の理由から、山伏たちの「語り物」のなかで話しが膨らみ「八の太郎」と「南祖坊」の昔話ができたと考えられる。

鳥舞。青森県立田子高校・郷土芸能部は、第34回全国高校総合文化祭で最優秀賞を獲得した
鳥舞。青森県立田子高校・郷土芸能部は、第34回全国高校総合文化祭で最優秀賞を獲得した

 田子町の「田子神楽」は全国的に有名。この山伏神楽を代々伝承している釜淵一 知氏は「田子町の蛇王神社にいたる途中の池振には「十和田山」への石碑もあり、昔は参詣する町民が絶えなかった」と語る。十和田への参詣道として、弘前大 学教授・斎藤利男氏は、「十和田の正面入口である糠部方面からは、五戸口、七戸口、三戸口があったと発表している。

 

 このうち中世以来の 本道にあたるのが五戸口道で、元禄6年に五戸代官木村又助が改修したのもこの道であった。」と記している。また、三戸口としては田子の椛山のドコノ森入口 の渓流沿いを遡り迷ケ平にでる十和田山への最短の参道が利用されていたと考えられる。

 

南部家図書

南部家図書にも三国伝記のことが5ページにわたり詳しく書かれている。この三国伝記に南祖坊のことを伝えたのは十瀧寺(十和田神社)の住職であると書かれている。
南部家図書にも三国伝記のことが5ページにわたり詳しく書かれている。この三国伝記に南祖坊のことを伝えたのは十瀧寺(十和田神社)の住職であると書かれている。
青森県重要文化財「弥勒菩薩」奇峯学秀 作(田子町姥ケ岳神社 蔵)
青森県重要文化財「弥勒菩薩」奇峯学秀 作(田子町姥ケ岳神社 蔵)

 

優秀な人材を輩出した田子 

 

 田子で生まれた南部二十七代藩主の利直(のちに盛岡藩主)は南祖坊の生まれ変わりであるとされていたこと。田子生れで姥ケ岳神社のある尾形家出身の、江戸時代の初期南部藩の数学者で日本で初めて正十一面体を発見した真法恵賢(しんぽうえげん)。

 

 三千体の作仏で有名な八戸の大慈寺の住職でもあった奇峯学秀(田子町の出身・江戸中期の禅宗の高僧)など優秀な人材も多く輩出していることなど考えれば、田子は山岳信仰の要衝の地であったのだろう。

 

 また、奇峯学秀は田子町七日市の釜淵家の出身で、釜淵観音堂に作仏した千体を奉納した石碑も建っている。釜淵家は先祖代々にわたり田子神楽(山伏神楽)を伝承している。

 

 さらに、三国伝記のなかで、南祖坊と八の太郎の戦いの終盤「大きな松が生じ邪魔をした」とあるが、これは椛山の蛇王神社の「蛇王の松」(国内最大級)であろう。そして十和田湖に隣接しているこの田子からこの物語ができたのも頷ける。

蛇王の松(蛇王神社)
蛇王の松(蛇王神社)

龍女は八の太郎を裏切った 

 

 この物語は、ある日龍女がいうには「この山の三里西にある奴可の山の池にいる八頭の大蛇が私を妻にしていて、一月の上十五日は奴可の池に住み、下十五日はこの池に来る ので、もうやってくる頃だ」と。

 

 難蔵は少しも怯まず、法華経八巻を頭上に置いた。すると難蔵の姿はたちまち九頭竜と変じ、八頭の大蛇と食い合うこと七日七 夜、ついに八頭の大蛇が負けて大海に入ろうとしたが、大きな松が生じて邪魔をしたため、威勢も尽きて小身となり、もとの奴可の池に入った。

 

 この松とは「蛇王の松」に違いない。いまでも言両の池の側で耳を澄ますと、水面下に読経の声が聞こえるという物語。


 主人公の「釈難蔵」は、後世の縁起類にも登場する「南祖坊」や「南蔵坊」に相当する人物である。『三国伝記』には、釈難蔵は書写山の辺にいた法華経の持 者で熱心な熊野信者であったとあるばかりで、その出生についてはふれられていない。

 

 その難蔵が十和田へ鎮座した原因については、弥勒の下生に値遇するという極めて無理な願望に発するとしている。そして、その願望に答えるような形で、難蔵が熊野に参籠して祈ったところ夢告を得たのである。

 

 難蔵は弥勒信仰の徒であったらしい。このような弥勒信仰とも書写山は関係深かったことが指摘されており、書写山の辺にいた難蔵が熊野の修験者で弥勒信仰の徒であったというのはその筋が通っているといえよう。

田子町の夏坂にある「山ノ神社」のオオカミの石像
田子町の夏坂にある「山ノ神社」のオオカミの石像

「山ノ神 神社」(田子町夏坂)

 

狛犬がオオカミ 

 

 みろくの滝への入り口付近に「山ノ神 神社」がある。夏坂の部落の家並みがつき、いよいよ白萩平への登り坂となる場所で、右手の龍ケ森への裾に、夏坂の産土神である「山ノ神 神社」が鎮座する。

 

 ここには一対のオオカミの石像がある。この神社の屋根は入母屋造りで、棟木の両端にカラスの木彫をつけている。カラスは山ノ神の使者であるからであろう。ここの山ノ神は女神であるといい、元は女はこの神社に行くことを禁じられ、鳥居の前で拝んで帰ってきたという。

女性の山ノ神は大変珍しい。昔は色付けしてあったと思われる。
女性の山ノ神は大変珍しい。昔は色付けしてあったと思われる。

山ノ神(女性) 

 

 御神体は右手に斧を持ち、左手にナワを持った山神の立像。高さ48センチの石彫である。祭神は大山祇姫(自然守護の神様)で、この山ノ神の他に、オテンマ様が祀られているといい、オテンマ様は山ノ神の親神であるといっている面白い解説である。

 

 棟札は天明2年(1782)からの4枚ある。明治以前の棟札がほとんど失われている中に、この田子の川筋の最上流の地に、200年前の棟札が保存されていたのである。この棟札は山神の本体は「毘盧遮那如来 」(びるしゃなにょらい)でその本地に近づくことのできない衆生を済度するために、仮に「大明神」として身を現したのが「山ノ神」と説いている。

 

 盧遮那は毘盧遮那如来で仏の世界を統括する仏で、功徳を分けると胎蔵界の大日如来、金剛界の大日如来であり、この両者を合体した大日如来は毘盧遮那如来である。表面の梵字のアーンクは、胎蔵界の大日如来を表した種子(しゅじ)なのであり、裏面中央のボローンと読む梵字も一字金輪仏を表す種子である。

「山ノ神」の両脇には大きな黄鉄鉱の塊が祀られている
「山ノ神」の両脇には大きな黄鉄鉱の塊が祀られている

 このような深い思想を一枚の棟札に表現できるのは僧侶か、修験の徒でなければできないことである。僧侶としてもこのように梵字を駆使してきたのは真言か天台の密教の徒である。田子地区には真言か天台の密教の徒があったことは知られていない。おそらくこれは修験者の筆であると田子町誌には記してある。「弥勒の滝の修行僧」のことを考えると、おそらくは南祖の坊一派の一人であろうと推測される。

 
田子町のみろくの滝頂上にある南祖坊一派の一人が、修業したと云われる台座。(右上の円形の部分)
田子町のみろくの滝頂上にある南祖坊一派の一人が、修業したと云われる台座。(右上の円形の部分)
みろくの滝の頂上には、南祖坊が修行した台座がある。滝中央は筆者。
みろくの滝の頂上には、南祖坊が修行した台座がある。滝中央は筆者。

 

 滝の頂上に「南祖の坊」修業の台座

 八の太郎が住みついていたと云われる青森県田子町椛山の蛇王神社の池とその脇には八岐大蛇を思わせる国内最大級の巨木のアカマツ、推定370年がある。

 

 そしてその場所から二里ほどのところに。南祖坊の一派の一人が修業したと思われる「弥勒の滝」があり、滝の頂上には修業中滑り落ちないように坐ることができるように削り造った台座がある。

 

 八の太郎」の伝説


 八の太郎についてはこのような昔話が残っている。八戸の十日町に住む三郎左衛門の娘お藤と八太郎沼の主との間に生まれ、十七歳で身の丈八尺五寸の剛力の 男がいた。階上岳の熊の肉を食い、木を伐り山歩きを好んだ。

 

 あるとき熊と戦い、力及ばず、急ぎ小屋に帰り水汲みに出た。そこで岩魚三匹を得て焼くと香ばしさに皆食べてしまった。たちまち咽が渇き、小川を飲み干しながら周囲を堀崩し大蛇になったと云う。


 八の太郎沼に住みついた大蛇には、干ばつなどの天災を起こすので、毎年人身御供(ひとみごくう)として美しい娘を捧げなければならなかった。

 

七崎姫

 

  都から流されてきた七崎姫がこれを聞き、身代わりになって、大蛇と観音教を唱え懐刀を目の前におくと、お経の一文字一文字が刀となって大蛇に突き刺さっていった。姫は苦しみもだえる大蛇に二度と悪さをしないことを誓わせ、そしてこれからは村人を守る沼の主になるよう約束させた。

 

 村人が翌朝沼に来てみると姫は息絶えていま した。村人はふびんにおもい、七崎姫を忘れないために、豊崎の地を七崎の地と呼ぶことにし、姫を観音様として祀り、姫の霊を弔いました。昔話によるとかつてこの地で行なわれていた「お浜入り」はその神事なのだと云う。そして、この七崎の地は南祖坊の大規模な修験の場になっていった。


 大蛇は七崎姫に敗れ、八の太郎沼が住みづらくなり田子町の椛山にある池とそこから三里ほど行った十和田湖を住処とした。田子町史にもこの池についての蛇にかかわる昔話が数々残されている。

 

田沢湖の辰子姫
田沢湖の辰子姫

悲運の八の太郎

 

 考えてみれば「八の太郎」運命は、階上岳の「熊」に負けてイワナを食べて大蛇になり八太郎沼に住むが、豊崎の地で「七崎姫」に負けて、十和田湖で龍女の妻を「南祖の坊」にとられて追い出され、八郎潟に逃れたという悲運な運命をたどっている。

 

 そして最後は田沢湖にいる「辰子姫」と一緒になったが、そこへまた「南祖の 坊」が戦いに行っている。八の太郎が不利になったとき「辰子姫」が「南祖坊」に松明(たいまつ)を投げつけた。

 

 これで南祖の坊が不利となり逃げ帰ったと云う。このときの松明が湖に落ち「国鱒」(くにます)になった伝説が残っている。

八岐大蛇(やまたのおろち)にも見える「蛇王の松」と「蛇王神社」、後ろには八の太郎が棲んでいたという沼。数々の伝説がある。
八岐大蛇(やまたのおろち)にも見える「蛇王の松」と「蛇王神社」、後ろには八の太郎が棲んでいたという沼。数々の伝説がある。
蛇王神社の鳥居。現在は、見学者が多くなり鳥居も塗り直され、横には駐車場が整備されている。
蛇王神社の鳥居。現在は、見学者が多くなり鳥居も塗り直され、横には駐車場が整備されている。

南祖坊伝承の残る地域

 

 『平泉雑記』には、中尊寺鎮守白山宮の「姥杉」が南宗祖坊の手植えであると伝え、南祖坊が蛇身となって十和田沼に入った話も記している。

 

 また、『新撰陸奥国誌』には、十和田市米田の曹洞宗米田山東昌寺(米田向町12-2)には鎮守堂があり十和田青竜大権現南祖坊を祀っているとある。


 青森市西田沢の田沢森の東麓に十湾神社があり、『青森県の地名』によると、祭神は十湾神(竜神)で、安政2年(1855)の神社微細社司由緒調書上帳 (最勝院蔵)に十湾明神とあり、雨乞いの神である、とある黒石市沖浦の支村一の渡の貴船神社は、天正年間に開かれている。

 

 『新撰陸奥国誌』によると、斗賀霊現堂の衆徒南蔵坊という法師が竜神と化して長くその身を保とうとして、八甲田に登り、神に祈って竜神となり十湾に入ろうとしたが、先に八竜がいたのでここへ来た、という伝承が残っている。
 

御室洞窟の入口、奥の院の札が見える
御室洞窟の入口、奥の院の札が見える

 『来歴集』には、難蔵坊が額田嶽熊野山十瀧寺(現・十和田神社)の住職で幼名を額部麿というとも、糠部三戸永福寺の六區の坊のうちの蓮華坊の住侶であるとも記されている。

 

 『いわてのやま』では、南層が盛岡領奈良崎の永福寺の僧侶であると伝える。『十曲湖』では、南祖坊を永福寺の僧とも、三戸科町龍現寺のほとりにいた大満坊 という修験が名を南蔵坊と改めたとも記されている。


 享保二年(1727)撰の『津軽一統志』には、津軽と糠部の境糠壇の嶽に湖水有、十湾の沼と云ふ也、地神五代より始る也、数ヶ年に至て大同2年斗賀霊験 堂の衆徒南蔵坊と云法師、八龍を追出し十湾の沼に入る。今天文15年まで及八百余歳也。とあり、南蔵坊が斗賀霊現堂の衆徒であると説く。このように、縁起 において斗賀霊現堂や七崎永福寺と南祖坊とを結び付ける逸話が数多く見られる。

御倉半島の崖
御倉半島の崖

 一方で、津軽地方でも南祖坊にまつわる伝承は残る。『新撰陸奥国誌』には、十和田市米田の曹洞宗米田山東昌寺(米田向町12-2)には鎮守堂があり十和田青竜大権現南祖坊を祀っているとある。


 青森市西田沢の田沢森の東麓に十湾神社があり、『青森県の地名』によると、祭神は十湾神(竜神)で、安政2年(1855)の神社微細社司由緒調書上帳 (最勝院蔵)に十湾明神とあり、雨乞いの神である、とある黒石市沖浦の支村一の渡の貴船神社は、天正年間に開かれており、『新撰陸奥国誌』によると、斗賀 霊現堂の衆徒南蔵坊という法師が竜神と化して長くその身を保とうとして、八甲田に登り、神に祈って竜神となり十湾に入ろうとしたが、先に八竜がいたのでこ こへ来た、という伝承が残っている。


 南祖坊にまつわる伝承は平泉まで及んでいる。このように南祖坊の伝承が広く流布するようになったのは、これが単なる伝説としてだけでなく、一編の文芸に仕立てられ、語り物として世に広がるとともに、愛読されたためである。
 

南祖坊の修行岩
南祖坊の修行岩

自籠神社の大岩

 十和田湖開祖伝説の中で、南祖坊と八の太郎の戦いの最中に雲中より天帝の声が聞こえたという。「いかに南祖坊よ、この言 別山(自籠大岩)と申す処は八の太郎が住みし山なれども、汝に熊野権現が住所として与えたもうものなり。草鞋の切れし、その印を見れせし事なれば、汝の住山に相違なし。

 

 八之太郎も同国の者なれば、汝と畢竟(ひっきょう)は味方の者なり。尚又、南祖坊に味方せし明神始め諸神よ、八の太郎に敵対することなく仲直りせよ。

 

 八の太郎は八高嶽(八甲田大岳)を住所となさすべし、必ず疑う事なかれ。」とのお告げでした。八の太郎は、この天帝のお告げを聞いて戦を止め八高嶽(八甲田大岳)に家来の八竜(白・黄・赤・黒・青・紫・茶・緑)と共に移り住み、また仮の住まいとされた秋田八郎潟は、八の太郎が秋田田沢湖辰子姫と 夫婦になり田沢湖に住むようになると、潟の主が不在となり浅くなったと伝えられている。

写真提供 デーリー東北新聞社 撮影PPG 山本ひろし氏
写真提供 デーリー東北新聞社 撮影PPG 山本ひろし氏
御室の洞穴、南祖坊の石像は葉が繁っている時期は見えない
御室の洞穴、南祖坊の石像は葉が繁っている時期は見えない

 

十和田山参詣圏

 松浦武四郎(探検家)の『鹿角日誌』には、長床には門口に七戸、五戸、三戸、野辺地、市川、毛馬内、花輪、奥瀬等の札が懸けてある小屋が数十棟あったこ とが記されている。

 

 『新撰陸奥国誌』によると、「この長床と云るは広平の村々信者の徒登山して止宿する為に設る所にして、鳥居の前左の方より南に区街を成 して、浅水、江刺家、劍吉、福岡、金田一、苫米地、又重、相坂、五戸、市川、沢田より奥瀬、一戸、七戸、野辺地、篠田の村々凡十棟二間に三間、三間に四間 等の板小屋にして……」とある。


 この長床の小屋は、夏に十和田へ参詣にやってくる人々の宿泊小屋である。それぞれの地域の名の札が懸けてあるところを見ると、それぞれの地方ごとに小屋 が建てられ、そこに同郷の者たちが集まってごろ寝をしていたようである。これは、単純に十和田湖へ多く参詣にやって来た人たちの圏域を示すもので、十和田山の参詣圏と捉えても良いだろう。

菅江真澄の描いた十和田湖の絵
菅江真澄の描いた十和田湖の絵

 

=菅江真澄記=


 夏の頃、あまた人が集まり、まろねして、あるいは小屋にこもったりしている。草の中に細く横たう流れを「解除(はらい)川」と言う。手を洗い、口をそそぎ、身も清めている。


 ここから五戸・六戸へ行く路がある。その路の入り口に、黒い木で作った鳥居があり、杉の神門を入って下路を行くと堂がある。青龍大権現という額がある。傍らに六柱の小祠がある。

 

 このように参詣者が訪れていた村の位置を見ていく と、北は青森県上北郡野辺地町から南は盛岡県二戸郡一戸町までの南部地域を参詣圏に納めている。現秋田 県下の毛馬内と花輪の鹿角地域も元は南部藩下にあったことを考えれば、十和田山の参詣圏が八戸あるいはその付近を中心として南部藩の勢力内に同心円状に広 がっているとすることが出来る。

岩手県九戸郡軽米町の「古屋敷の千本桂」
岩手県九戸郡軽米町の「古屋敷の千本桂」

 左の写真は、岩手県九戸郡軽米町晴山にある「古屋敷の千本桂」(推定樹齢580年)だか、そこに並ぶ石碑のなかに「十和田山 神社」がある。これは、この地域からも当時は御山参詣に行っていたという証しになる。

 この圏域は南祖坊伝承の舞台でもある。十和田信仰圏の中心が八戸の付近にあったという事は、信仰の担い手の存在がそこに あったということを示してもいるだろう。

古銭を引き上げた、磯崎定吉(1872〜1922)
古銭を引き上げた、磯崎定吉(1872〜1922)

 

霊山・十和田湖の占い場の賽銭を引き上げる

 

 中世における修験の道場として十和田の存在を証明するのが、十和田神社にある「占い場」の水中から引き上げられた多量の古銭である。これは戦前(1回目は1903年、計4回行われている)、十和田神社司・織田与次郎が種市の海女を雇って行い、第1回目は古銭1千余圓、内7割が中国銭で、残りが和銭(寛永通宝など)、種類は200余種であったという。

 

 現在は大部分は行方不明となり、旧十和田村長小笠原氏の所蔵する渡来銭29種だけが武田千代三郎著「十和田湖」(十和田保勝会発行・1922年)で紹介されている。また、他に古鏡・古剣も引き上げられたという。これはオサゴ場(占い場)が中世期(平安末〜鎌倉期)以後、江戸時代まで、長期にわたって人々が銭・鏡・剣を湖に奉納した信仰の場であったことを証明している。

 

磯崎定吉が十和田神社から拝領した銭箱
磯崎定吉が十和田神社から拝領した銭箱

 古銭引き上げの指揮をとったのは、現在の岩手県洋 野町種市の磯崎定吉。七日七夜の沐浴(もくよく)祈願(きがん)により身を清めた後、この仕事に挑み、20日がかりで十和田湖の底からお賽銭を引き上げ た。

 

 この時の報酬として定吉は荷馬車7台分もの賽銭を手にし、このお金を元手に潜水を事業とする「南部もぐり」の礎(いしずえ)を築いたと云う。

 

聖地・五色岩(ごしきいわ)

 十和田湖の伝説にまつわるこの御倉半島の五色岩は大昔、十和田湖の主争いをしたときに負けた八の太郎の恨みの血を吸い取ってこんなに赤くなったと言われている。これは十和田火山の二度目の噴火のときの火山灰の層で、中に含まれている酸化鉄によって赤色になったと云われている。


 約1万5千年前の八戸降下火山灰・軽石・火砕流の噴出で,直径10 キロの十和田カルデラが形成された後、カルデラの南よりに小型の成層火山(五色岩火山)ができたと考えられている。

 

 

南祖坊の石像(御室の洞穴の隣りにある)
南祖坊の石像(御室の洞穴の隣りにある)

 聖地・南祖坊石像

 「御室」のある場所から数メートル離れた所にこの「南祖坊像」がある。一見苔蒸した石にしか見えない人もいると思うが、長髪に長い髭、長い衣をまとった「南祖坊」と思われる像だ。自然に出来たとしてもこれほどの人型になるのは稀であろう。

 

 修験者たちは、船で渡ることは禁止されていたので、この御室の洞窟と石像に会うために命がけで来たという。ここに至る道はなく、確認はしていないが、おそらくかんこ台方面から断崖絶壁を降りてこの聖地にやって来たのではと推測している。修験者たちは、ここにお参りするのは十和田神社の前日に限られていたと云う。

 

 現在は、湖側からボートで行くことはできるが、鉄の梯子も腐っていて危険だ。また梯子の場所の下は流木が沈んでいて接岸することができない。2013年、この洞窟の前から戦時中の戦闘機が引上げられた。まるでこの洞窟に引き寄せられるように沈んでいた。

 

 この御室(おむろ)の洞窟と石像の場所は、樹に葉の繁っている季節は容易に探すことはできない。また、国立公園の十和田湖でも「特区」となっていて自然環境保全のため特別厳しく保護されている地域でもある。

御門石の場所、御倉半島の先端にある。
御門石の場所、御倉半島の先端にある。

聖地・御門石(みかどいし)

 御倉半島の前に位置している小島がある。小島といっても水面すれすれで1メートルも出ていない石である。十和田湖の最も深い中湖のにありながら数メート ルの面積しかない。湖をよく知らない人が船で岩に激突する危険な場所でもある。

 

 水中の底辺をみると高さ70メートル、直径620メートルその体積は0・013km3 と見積もられる、巨大な円すい型で、正に水中ピラミットともいえるのが、この「御門石」なのだ。

御室の洞窟までハシゴが伸びている
御室の洞窟までハシゴが伸びている

聖地・御倉半島の御室


 五色岩から半島の崎へ少し行った所に南祖坊が修行したと云われている洞窟がある。この場所は「御室」と呼ばれる所で、「南祖坊の石像」が隣りにある。入り口までには鉄のハシゴが架かっているが、腐って危険な状態。湖からも、流木などが邪魔をして接岸できない。葉の繁る季節は隠れて見えない。洞窟の前には奥院と書かれた札が立っている。対岸の十和田神社の「奧院」ということだろう。

 言伝えによると、近年まで十和田神社の例大祭の前日にこの地に修験者が御参りに来ていたという。

 

  この「御室」については、武田千代三郎が記した『十和田湖』に詳しく書かれており、「湖岸の赭岩に一洞窟あり、洞口穹形を爲して、一大巨室に通ず 人敷十を容るべし、室の左右に隧道あり、右なるは深さ十間許り、左なるは三十間を越ゆ、炬を携へて進入すれば、無敷の蝙蝠人面を撲つて狼狽す、之を御室と 云ふ」とその様子を記している。

2012年7月29日 御室の洞穴調査に同行した、日本地質学会の松山力先生
2012年7月29日 御室の洞穴調査に同行した、日本地質学会の松山力先生

 御室の洞穴、祠後ろの地層は巨木の年輪または光輪のようにも見える。この洞窟を一緒に調査した日本地質学会の松山力(まつやまつとむ)先生は、40年間地質学を学んで来たが、このような地層は見たことがないという。おそらく一万五千年前に十和田湖が出来た頃にできた地層と分析している。まるで小宇宙のような奇跡の地層である。

 

  十和田湖御室の奥院修行窟は左右に隧道が掘られている。宝暦13年(1763年)に完成した「御領分社堂」には、「十和田銀山→山神宮 同(社地斗)往古南蔵坊を祝候由申伝候」との記述がある。この洞窟にいたる湖からの鉄のハシゴは腐り、十和田湖神社の占い場のものと同時代に作られたものと考える。この御倉半島の四大神秘こそが聖地として南祖坊が選んだ理由に他ならない。

 

 今後において、この聖地は地域の宝として保護し静かに見守っていってほしい場所である。

ここが究極の南祖坊が修行したと云われる聖地の洞窟。まるで宇宙のような不思議な年輪状の地層がある。
ここが究極の南祖坊が修行したと云われる聖地の洞窟。まるで宇宙のような不思議な年輪状の地層がある。
祠には、熊野神社の御札が見える
祠には、熊野神社の御札が見える