北東北・不思議の世界

 青森県と岩手・秋田県北には、不思議な場所が多く点在する。また、国内最大級の巨木群(神秘の巨木を訪ねてを参照)もこれらの場所にある。特に下記に記載している、三戸郡(田子町・新郷村・階上町)十和田市の十和田湖・鹿角市の大湯温泉に集中しているようだ。

 初めに断っておきますが私は宗教家でも冒険家でもありません。ただ、世の中には私たちの知らない世界がまだまだたくさんあるに違いない。そんな世界を「あるはずがない」「何を馬鹿なこと」と片付けてしまっては何とも面白く無い。もしかしてあるかも知れないと思った方が世の中楽しくなる。

 それでは、私の見た事、聞いたこと、身辺で起きた不思議な出来事を写真を交え綴ってみたい。

高山稲荷神社

 高山稲荷神社の由緒は、創建の年代は明らかでないが、鎌倉時代から室町期にかけてこのあたりを統治していた豪族安倍安東東(藤)氏の創建と伝えられている。
 江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社創建の社説には、十三湊東方に山王日吉神社を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東(藤)の祈願所として栄えるも1443年(または1432年)頃に南部勢の焼き討ちにより消失。この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まられた、と伝えられる。

 

高山稲荷神社(青森県・つがる市) 

 稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄十四年(1701)、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の江戸城内での刃傷事件による藩取りつぶしの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉載し、流浪の果て津軽の弘前城下に寓し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し、醸造業を営み栄える。その子孫が渡島に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより移し祀った、と伝えられる。稲荷創建の社伝は他にも諸説あるが、いずれも江戸時代に入ってからのことである。
 これらを総合して考えると、元々は三王神社が祀られ、その後江戸時代に稲荷神社が創建され、江戸時代の稲荷信仰の隆盛とともに稲荷神社が繁栄し元々の三王神社が後退したものと考えられている。
 御祭神は、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)・佐田彦命(さたひこのみこと)・大宮能売命(おおみやのめのみこと)。

高山稲荷神社の例大祭 

 朱塗りの鳥居が美しい高山稲荷神社の例大祭は、稲荷信仰とともに龍神信仰も盛んだ。今年も9月24日の前夜祭では、龍神宮神苑に特設会場が設けられお火焚き神事が行われ、祈願串が井桁の中に投げ込まれて津軽神楽が奉納された。9月25日の当日祭でもまた津軽神楽の奉納が行われ、朱塗りの鳥居が見事な高山稲荷神社には、全国からも多数の参拝者が訪れたが、地元青森県民でも高山稲荷神社の存在を知らない人が多いのではないだろうか。

多くの鳥居がある神社 

 高山稲荷神社は、十三湖の下にある青森県つがる市(牛潟町鷲野沢)にあり、日本海が真近に見える風光明媚な場所にある。
 神社特徴として何といっても圧巻なのは、たくさん鳥居とたくさんのキツネの石像があることである。
 神社の入口の大きな赤い鳥居をくぐると正面に社務所を兼ねていると思われる大きな建物が目に入ってくる。広大な敷地にはあちこちに社殿があるようだ。広い駐車場もあり訪れる信者の数も多いことがわかる。

 施設案内板には、神社の由緒や境内の施設などの案内地図が記載してあった。その脇にある長い階段を登ると数えきれないほど多くの鳥居がある入口にたどり着く。
 そして、圧倒される数の鳥居に目を奪われる。何故こんなにも多くの鳥居を建てたのだろう。その鳥居の周辺は日本庭園となっていて景色も楽しめた。その鳥居を抜けると龍神の神社があり、裏手周辺の山にはドングリの樹が群生していて大きな池もある。
 神社脇には、驚愕するほどのキツネの石像が建ち並んでいる。このキツネはどこから来たのだろう。キツネの石像は対になっていて、表情がすべて異なる。見て歩いててもその表情が実に楽しい(?)不思議な世界だ。

石神神社のご神体(青森市入内)

自然の石とは思えないほどの目の形。パワースポットでは青森ナンバー1ではないだろうか?
自然の石とは思えないほどの目の形。パワースポットでは青森ナンバー1ではないだろうか?

 青森の入内(にゅうない)の部落から、車がすれ違うことのできない山道を6キロほど山に入った所にこの「石神神社」がある。 

 途中山菜採りの車が数台停まっていた。それにしても進むほどに本当にこの道でよいのかと何度も思うほどの細い道であった。

 

  この石神様は、巨石記念物のメンヒル(立石)や「神域」としての磐座とは異なり、石自体を神とする「石神様」として、社殿の裏に鎮座している。ご神体は、自然の造形物 とは思えない異形な面貌の人面石。大きく窪んだ眼窩から放つ、魔界の底から魅入るかのような視線に、一瞬たじろいてしまう ほどの迫力がある。

 

 私が石神様を撮影していると、大きなススメバチが石神様の周りを旋回しはじめた。写真を撮ろうとすると、石神様がのりうつったように威嚇しブンブン音をたて近づいてくる。まるで撮るなというようだった。こんな山の中で刺されたら命も危ないと思いさっさと帰るはめになった。

 

 長い石段を下っていったら、タケノコ採りにきたという2人がいて私を見てびっくりしていた。めったに人に出会う場所ではないからだろう。

 伝承によると、石神様の発見者は、隣村の小館村に住む長内弥十郎という杣人(そまびと)であったと云います。目を患った弥十郎は、ある日、駒田山の清水で 目 を注ぐと、眼病が治るという不思議な夢を見た。

 

 翌日、杖にすがり駒田山に分け入ると、夢で見たのとまったく同じ風景に出合い、そこで不思議な自然石「石神 様」と遭遇する。さっそく「石神様」の目の窪みから湧き出る清水で目を洗うと、弥十郎の目は、夢のお告げの通りたちどころに治ってしまったと云う。

 

 柳田國男に「民俗学の祖」と評された旅行家・菅江真澄は、江戸後期の寛政7年(1795)、8年の2度にわたり入内村を訪ねている。

 

 目的は黄金山神社(小金山神社)参拝で、入内村の村長の家に泊めてもらうなど、村人と交流をもっていたが、「石神様」に関する記述は『遊覧記』にまったく見られない。入内から更に歩いて1時間半ぐらいも山に入るので道も無いほどの秘境だったに違いない。真澄が旅 した江戸後期において、「石神様」の存在はほとんど知られていなかったのではないだろうか。また現在においても、この石神様の存在を青森でも知らない人の方が圧倒的に多いようだ。

 明治初年(1868)の神仏混淆禁止令により、神社の形態が整っていないという理由で、石神神社の信仰は禁止される。

 

 しかし、秘かに山懐に詣で、こっそ りと霊水をくみだす人が絶えないため、ついに石を破壊しようと石工が派遣されるが、石工が石に触れると手がしびれ、氷雨が降るという奇異な現象が起きる。 これに驚いた石工は怖くなって逃げ出し、ついに石神様を壊すことができなかったという。

 

 その後、明治38年(1905)、三上東満(みかみとうまん)氏によって、再び神社は開山され、現在に至る。

 

 この話は、やがて村人から村人へと伝わり眼病や難病に効果があるとして、その霊験が喧伝され多くの信仰を集めるに至ったと云う。

 

 「石神信仰の草創は不詳なるも、徳川中期より信者、行者が参籠していた」とあり、弥十郎の「石神様」発見の伝承は江戸中期以前となる。

ヒメツバキの北限は岩手県と聞いていたが、この地が北限となるのだろうか? 黄色の二輪草? お社を覗くと蛇がいた。 神社のあちこちに奇妙な巨石がたくさんある。 境内全体が不気味な霊気につつまれている。
ヒメツバキの北限は岩手県と聞いていたが、この地が北限となるのだろうか? 黄色の二輪草? お社を覗くと蛇がいた。 神社のあちこちに奇妙な巨石がたくさんある。 境内全体が不気味な霊気につつまれている。

 『角川日本地名大辞典・青森県』によると、明治24年の入内村は、戸数14・人口119。同43年に、集落内を通り山地へ向かう駒田林道が整備されたが山中で行き止まる。と記されている。当時、石神神社に至る満足な登山道はなく、明治末期まで、ここは未開の地だったことがうかがえる。

 

 現在では車でも神社までは行けるが、山道の下は崖となっていて危険。石神神社の少し手前に御鈴大滝神の鳥居があって、沢に下りると滝壺にも岩の御神体がある。もっと名所となってもいいような素晴らしい景観の滝があった。入山する人も少ないようなのでイワナなどもさぞ釣れることだろう。いつかまた訪ねる機会があったときは是非釣り竿を持参していこうと思っている。

ドコノ森の不思議な石 (田子町)

ドコノ森(田子町)で見つかる超古代文字(神代文字)が刻まれた謎の石オーパーツ 不思議な文字の入った石のほとんどは登山者によって持ち去られたというが、大きい石は重く持ち帰ることが出来ないので残っている。 2012年5月17日撮影
ドコノ森(田子町)で見つかる超古代文字(神代文字)が刻まれた謎の石オーパーツ 不思議な文字の入った石のほとんどは登山者によって持ち去られたというが、大きい石は重く持ち帰ることが出来ないので残っている。 2012年5月17日撮影

 ドコノ森の9合目から上は火山灰に覆われて大小様々の石が転がり,その一つ一つに古代文字・模様といわれる刻みがある。なかには古代シュメール文字、モリツネ文字、あひる文字、ヘブライ語であるという方もいる。 この石を拾って持ち帰るとよく不幸事が起こるといわれている。家族に不幸があったり、事故にあったりして、ドコノ森に返しに いったり神社に持って行ったりしているようだ。私は実際にその石を見てみたが、摩訶不思議な形と模様であった。明らかに研磨したような箇所や自然でない模様がある。昔はその辺にゴロゴロあったという。(案内人が必要)

 

NHKに取材を受ける、田子町文化財審議会会長 馬場 清 氏 2012年5月17日
NHKに取材を受ける、田子町文化財審議会会長 馬場 清 氏 2012年5月17日

馬場 清さん(田子町文化財審議会会長)は、「ドコノ森」のことを次のように述べている。

 オーソドックスな歴史学では、わが国ではまず縄文時代があり、その後、弥生時代に移行したと考えます。この考えによると、文化の低い状態からしだいに高 い文化に移っていったという考え方が前提になっています。私たちはこれまでそのように教えられてきました。ですから、もし皆さんが縄文時代の前にすでに高 度の文化を持った時代があり、何かの理由で〜例えば天変地異などによって〜その文化が一時絶滅し、縄文時代はその復興期であったとしたらきっと驚かれるに 違いありません。ところがそのようなことが事実あったのだということが記された文書が今もなお残されており、そのことを信じている人々もまた少なくはないのです。

古代文明を記した文書


 「上記(ウエツフミ)」、「宮下文書」、「九鬼(クカミ)文書」、「竹内文献」と呼ばれているのがそれですが、そのあらましを箇条書きに述べると次のようになります。

1.現天皇家(124代)の前に73代も続いたウガヤ王朝があった。
2.ウガヤ王朝の終わりに長髄彦(ナガスネヒコ)というものが反乱を起こし、

 神武天皇がこれを平定し大和(ヤマト)政権を創った。
3.長髄彦は津軽に逃れて新しい国家を創った。

 こうした言い伝えを信じる人々は次のように推定します。

 ウガヤ王朝というのは縄文人の国家であって日本列島で平和な国家をつくり、高度の文明を持っていました。それが、他の国からの侵略を受けたり、天変地異があったりして衰えかけていたとき、大陸からの侵略者によって滅ぼされました。この侵略者が弥生人であり、現天皇家の先祖といいます。

 

日本にもピラミッドがあった


 それでは弥生人に滅ぼされる以前の縄文人たちはどのような文明を持っていたのでしょうか。「竹内文献」によれば、当時すでに日本にピラミット(文献で はヒラミット)があったと記されています。私たちはビラミットというとすぐにエジプトの三角のものをすぐに連想し、その他の形をしたものはピラミットとは 考えないのですが、ある研究者によればピラミットというのは形ではなくて、それがどのような力を持っているかによるのだということになります。すなわちピ ラミットとは次のような物理的な力(ピラミッド・パワー)を持っているものの総称であり、一般に次ぎのような効果があるとされています。
1.脱水作用とミイラ化 

2.殺菌作用 

3.食物を美味にする作用 

4.カミソリのように刃を鋭利にする作用
5.病気をなおす作用 

6.農作物の成長を助ける作用 

 こうした予備知識をもって私たちの郷土の周囲を見廻すとき、これまた信じられないことかも知れませんが一部の人たちによってピラミッドであるとされているところが数カ所あるのです。大湯のストーンサークルの近くにある黒又山(クロマンタ)、椛山の奥のドコノ森、迷ケ平の十和利山、戸来岳の大石上(オイソガミ)などがそれだと云われます。これらがピラミッドだとすれば、それぞれの麓ではピラミッド・パワーの効果によって豊な作物に恵まれ、人々は快適な文化生活を送っていたことになります。

 一部の人たちによってピミッドだと考えられているこれら四つの山には共通した特徴があります。それは「石」に深い関わりがあるという点です。大湯の黒又 山はその麓にはストーン・サークルを抱いており、戸来の大石上には巨大な石が散乱していて、かつてここに巨大な石の建造物があったことを推察させますし、 田子町のドコノ森には「文字石」と呼ばれる奇妙な石が発見されたのは有名です。

取材隊から神酒が捧げられた。後方の山はドコノ森(八合目付近)
取材隊から神酒が捧げられた。後方の山はドコノ森(八合目付近)

 ドコノ森は田子町内から見ると大黒森の右手に続いて見える山です。椛山を過ぎて湯の沢で右折して長いながい林道の涯に行きあたる山です。今でこそ 林道が通っていて、なんとか車も使えるようになりましたが、以前は文字どおり深山幽谷そのもので人跡まれなところだったと思われます。

 問題の「文字石」が発見されたのは、ほとんど偶然のできごとによるものでした。昭和11年にこのあたりから金鉱が出るそうだという評判が広がりドコノ森 にも調査隊が入りました。そのときに南向きの7合目から頂上にかけて奇妙な石が数多く発見されたのです。一面に散乱している石のほとんどが人間の手によっ て加工されたように形が整っていて。しかもそれぞれの平面には自然の造作とは考えられない不思議な刻線が彫り込まれていました。
 
 昭和11年といいますと日華事変の直前で、日本の国は神国であると唱え、国民全体が神がかり的な状態にあった時代で、すべての面で日本の国が世界で一番であると信じこまされていました。ですから外国語は排斥され、漢字のような外来文字以前に日本には固有の文字が神代の時代から存在していたと言われるような時代でした。このような周辺の事情もあって、この奇妙な刻線は日本国古来の文字であると宣伝され、こうしてドコノ森はにわかに世の注目をあびるようになりました。
 これにはさらに戸来のキリスト伝説や十和田高原神都論がつけ加えられ、山根キク氏の「キリストは日本で死んでいる」や日本大学の仲木貞一教授が制作したキリストの映画にも紹介されたといいます。

 

 

馬場 清 氏 所蔵
馬場 清 氏 所蔵

石の刻線は文字なのか

 
 さて、こうして注目を集めた石の刻線はいったい何んでしょう。もしも仮にこれが文字であるとすれば、複数の刻線を比較した場合、それぞれの間に規則性や 整合性がなければならないと思われますが、私の見る限りではそのような特徴は見当たらないように思われます。このほかに日本の古代文字に関する解説書に当 たってみましたが、ドコノ森のそれのように彫刻刀で彫り込んだ感じのものはなく、この点からしても文字であると断定するのは少し性急ではないかという気が します。

 「記号ではないだろうか」と考える人もいます。八戸高専の堀田教授は「多数ついている褐色の条痕は自然の生成であるらしいが暗黒色の痕跡は明らかに人工的なもの、文字ではなくてもなにかの記号、たとえば方角を示した図のようなもの」と断定して人間の手による意図的な製作物であることを認めておられます。

疑問が残る不思議な石

 

 ドコノ森の石の刻線が文字であるか、あるいは記号であるかが仮に明らかになったとしても、そこでこの石の謎がすべて解明されるわけではありません。まずこれらのおびただしい石がもともとこのドコノ森にあったもので(ということはドコノ森が石山であるということになりますが)これらの石の刻線がドコノ森の現場で加工されたものなのか、あるいは別の場所で加工されたものがここに運ばれてきたものかという点も問題として残りそうです。私の見た感じではこれらの石が散乱している場所はドコノ森自体は石山ではないように思います。ですからどちらかといえば他から運ばれてきたものだと考えます。

 そうしますと、いまもドコノ森の現地で見られるはっきりとした刻線のついた2個の巨石はどのようにして運搬したのかという疑問が残ります。この2つの巨石を動かすのには人力だけでは到底できないということは明らかです。
 もう一つの疑問は、これらの石群は、なぜ南側斜面にだけ集中しているかという点です。このことはあるいは太陽神仰の一形式を示唆するものかも知れませんが、確定的なことは言えません。ある研究者はこの南向きの山腹はかつての風葬の場であって、この昔この山の周辺に住んでいた人たちの族長のような立場にあった人物が風葬され、その人の遺徳をしのぶために祈願の意味をこめて刻印を付した石を捧げたものであろうと推定している。

 また、石の形が人工的な四角い物が多く発見されており、石を積み上げて記念の碑を建てていたものが崩れ散乱したとも考えているのですが・・・。     おわり   

 

 

 

川崎真治氏のドコノ森の「文字石」解析

山崎 喜三郎 氏  所蔵
山崎 喜三郎 氏 所蔵

シュメール族の文字 

 

 川崎真治氏(かわさき しんじ)は、日本の言語学者、考古学者。大学や公の研究機関には所属していない在野の研究者。世界各国の古代言語や古代文字ペトログリフ)と日本語との関係を、極めて大胆な発想で結びつける説を多数提唱している。

 川崎真治氏は、ドコノ森の「石にある文字」を、今から3500年前後前に日本に渡来したシュメール族が神を描いたものと解析している方。

 

川崎真治氏の解析した絵図
川崎真治氏の解析した絵図

シュメール神話が

描かれているという説


 さて、この紀元前3000年以上にさかのぼるこのメソポタミア文明の民族は「シュメール人」と 呼ばれているが、その民族の由来は現在もよく分かっていない。


 そしてこのシュメール人はやがてこのメソポタミア地方に南西から進入してきたアラブ起源 のセム族に征服されていく。このオリエントに展開したセム族がアラブ起源だということは「アラブのイスラーム」を見るとき大事なポイントになる。


 この進出してきたセム族の名前は「アッカド」と呼ばれているが、このアッカドは先行の高度なシュメール文明に感化されてその「神」もシュメールの神を引き継いでいく。その神のことがドコノ森の石に記してあるというのだ。

天地創造と人間の創造

 
 先ずシュメール神話で最大の特徴として注目されるのが「天地の創造と人間の創造」となり、この思想は中東・オリエントの最大特徴ともいえる。この思想は一般には「ヘブライ神話」で知られているが、ヘブライはシュメールよりかなり後代 の、しかも中東西部に展開した民族だ。


 しかし彼等も同じ「セム族」に属し、したがってシュメールとの関連も見られるわけで、有名な「ノアの方舟」の後 その子孫は「東に移りシナルの地に平野を得てバベルの塔を建てた」と語られている。そのヘブライ神話にある「シナル」というのが「シュメール」のなまった言い方であるとされている。


 その天地の創造の物語は、初めに
「天」と「大地」が造られ、そして「チグリス」「ユーフラテス」の河が造られ、そして天には「天神アヌ」「大気の神エンリル」「太陽神ウトゥ」「大地と水の神エンキ」がおり、神々は相談して次ぎに何を創ろうかということになって「神々に仕えるものとして人間を造ろう」ということになり、「女神アルル」を召し出して人間を造らせた。そしてそこに「穀物や知恵の神ニバダ」を送ったという。


 ここにある「人間を神々に仕えるものとして創造した」という話しはヘブライ神話での
「アダムとイブ」の物語にそのまま現れている。また人間界に穀物ばかりか「知恵」が必要であったというこの神話はヘブライ神話での「人間が禁断の木の実、つまり知恵の実を食べてしまい地上に追放された」という物語と通じている。

 


遮光器土偶はシュメール族の神か

 

 考古学者・川崎真治氏、竹内文献によればシュメール族(縄文人)が日本に渡来してきたのは紀元前3500年で、東日外三郡誌に出てくる、アソベ族やツボケ族たちから受け継いだという荒吐神像として描いた神の姿は、まるで「遮光器土偶」そのものである。遮光器土偶や国宝の合掌土偶が発見されたのは紀元前3000年〜3500前の縄文晩期ということであれば頷ける。そんな時代に衣服らしい物はあるはずは無く、遮光器土偶の身につけている衣服らしいものは、考えられるとすれば宇宙服か・・・。こつ然と消えたシュメール族は宇宙へ帰ったのか。想像することは自由、世の中が面白くなってくる。

八戸市「是川中居遺跡」から出土した赤漆塗り土偶(左写真は是川縄文館所蔵、右写真は復元土偶・佐京窯)
八戸市「是川中居遺跡」から出土した赤漆塗り土偶(左写真は是川縄文館所蔵、右写真は復元土偶・佐京窯)
東日外三郡誌(市浦村役場発行)に出てくる荒吐神(縄文時代)の日神と月神は遮光器土偶と似ている
東日外三郡誌(市浦村役場発行)に出てくる荒吐神(縄文時代)の日神と月神は遮光器土偶と似ている

スーパームーンと皆既月食(八戸市)

今日はスーパームーンが見られるという日。地球に月が一番接近する日という。三脚なしで撮影したら「緑と赤の丸い玉」が写っていた。 2012年 5月5日(土)21:05 撮影

 

 

 

 

2011年冬 撮影 皆既月食で月が出てくる瞬間。この2枚は家の庭から撮った。
2011年冬 撮影 皆既月食で月が出てくる瞬間。この2枚は家の庭から撮った。

謎の球体(八戸市)

謎の球体
謎の球体

  八戸市の金吹沢神社入口にある「謎の球体」。直径が20㎝ぐらいある。

 

自然にできたとは思えない形だ。隕石にも見える。

 

無造作に置かれているので誰かに持っていかれるのではと心配している。

 

 

 

人工の石ではない自然にできた石で、これだけの球体を初めて見た
人工の石ではない自然にできた石で、これだけの球体を初めて見た

 東北巨木調査研究会の仲間に、上の石の話しをしていたら私の家にもあるよ、その辺にあるはずだといったので探したらあった。直径18センチほどのもの。持っていってもいいと言われたので、いただいてきた。この石を持っていると好い事が起こりそうだ。

 

 三戸町の「道路バイパス工事」をしているときに工事現場の山から出てきた神秘的な石という。それにしてもこんな自然石は珍しい。磨いてみようと思ったが、磨くと価値がなくなり運も落ちそうなので、自然のこのままにして置こうと思う。

 

 甌穴によってできた丸石だとしても、ここまでの丸石だと見事。 甌穴(おうけつ、かめあな)とは河底や岩石面上にできる円形の穴。ポットホール(pot hole)、またはかめ穴ともいう。河底や河岸の表面が硬い場合、表面に割れ目などの弱い部分があるとそこが水流による侵蝕のためにくぼみとなる。このくぼみの中に石が入ると渦流によってその石が回転し丸みを帯びた円形の石となる。甌穴は穴の直径、深さとも数cmのものから数mのものまでその姿はさまざまである。底に磨耗した小石が残っているものがそれである。

化石の発見(田子町)

 1600万年前のアツガキが田子町で佐藤貞夫氏(発見年月は不明)によって発見された。この地域が海でその当時熱帯地域であったことを物語っている。青森県の中心部分が海とは摩訶不思議ではありませんか。

 

 この化石発見の発表はいままでに無い。今後学識者で調査する予定。その他の貝の化石も発見されている。近くにも大量に貝の化石がでたり、貝森という地名まである。

 

 

 二戸市や三戸町でも発見されている。

 

 

アツガキの上と下
アツガキの上と下
合体したアツガキ
合体したアツガキ
「雨の化石」
「雨の化石」

 十和田湖の火山の噴煙に雨が降り火山灰を付着させ出来た「火山豆化石」属称「雨の化石」と呼ぶそうだ。1万年以上前のもので山に入ればたくさんの場所で見られる。(2012年7月採取)

 日本地質学会の松山力先生から教わる。

 ホタテの仲間で、やはり1万年以上前の化石。田子町の熊原川の砂岩にたくさん見られる。アツガキの化石などからも、この地域は大昔に海であったことがわかる。

 最終氷期ピーク直前の3~4万年前の化石か?

 白板良二氏・松館正義氏の発見(1012年7月採取)の化石。

十二本ヤス(五所川原市)

 梵珠(ぼんじゅ)山脈の中に樹齢800年以上、樹高33.46メートル、幹周7.23メートルのヒバ(ヒノキアスナロ)の巨木がある。主幹が12本の支幹に分かれており、その形が魚を突くヤスに似ているところから十二本ヤスと呼ばれている。


 新しい芽が出て支幹が13本になると、必ず1本枯れて12本になることや、12月12日が山の神を祭る日となっている事などから、山の神が依代した神木として崇められている。

キリストの墓とピラミッド(新郷村)

キリストの墓を見学に来る人が多い
キリストの墓を見学に来る人が多い

 青森県新郷村は、実は古代日本に渡来したユダヤ人が創った村であるという伝説が残っている。村には何とキリストの墓まである。もともとは、古い殿様の墓という言い伝えで村の沢口家が墓守として代々守ってきた墓なのだが昭和初期に、「竹内探検隊」によってこの墓がキリストの墓であると断定され、村人たちはキリストの縁者と日本中の注目を浴びた。遠くユダヤの地で磔にあったのはキリストではなく弟イスキリだと言う。キリストはユダヤを離れ、シベリアを横断し、アラスカから船に乗って青森県八戸に上陸したと言うのである。キリストは20代の時にも日本に来ており、再上陸したのちは日本人の妻をめとり、新郷村で3人の娘を育てたそうである。新郷村には竹内文書によれば、日本には数万年前のピラミッドが7基あるという。そのひとつが、この新郷村にある大石神ピラミッドという。

 キリストは、戸来村にやってきて、八戸太郎天空と名を変えたが、やがて十和利山の迷ケ平に住み、ユミ子という戸来村の娘と結婚し子供を生んだという。その子孫が現在の沢口家である。

巨石のあるビラミット
巨石のあるビラミット

 さて、そのピラミッドだが、エジプトにあるようなピラミッドを想像してはいけない。日本にあるピラミッドはいずれも自然の山を利用したものなので、エジプトのピラミッドのように一目瞭然というわけにはいかないのである。山の頂上や稜線に巨石が規則正しく配置されているのが日本のピラミッドである。ここも、太陽石、方位石、星座石、鏡石などの名前がついた岩があり、超古代文明がブームとなった。そういうこともあり多くのマスコミや知識人が新郷村を訪れている。
 この騒動のきっかけは、古文書「竹内古文書」で有名な茨城の宮司・竹内巨麿が、古文書の表記に従って、新郷村(当時の名称は戸来村)を訪問。太陽のピラミッドや、キリストの墓があると主張した事に遡る。新郷村の人々は、村によい名物ができたと素直に感激し「キリストの墓」や「キリストの里伝承館」「ビラミットの看板」まで造ってしまった。

村内にある看板
村内にある看板

このブームにマスコミが乗っかり、作家の山根キクが著述した「光は東方から」がベストセラーとなり、観光客や学者が村にたくさん訪れるようになった。竹内巨麿や友人・山根キクの功績により、当時の戸来村は日本に亡命したキリストの子孫だということになってしまった。

キリスト資料館
キリスト資料館

 このキリスト伝説は、ただの冗談でなくそれを裏付けるような一致点も多々ある。まず、キリストの娘を嫁にもらったという沢口家当主の容貌は、一見、青眼に彫りの深い外国人のような顔だちであった。しかも、家紋はダビデの紋章である。戸来村では父のことをアヤ、母のことをアパと呼んだ。これはアダムとエバ(イブ)に似ている。
 村の赤ちゃんには、魔よけとして額にクロスを書く習慣があった。村の野良着は、ユダヤの民族衣装に酷似している。赤ちゃんの揺り籠は、ユダヤの伝統的な揺り籠と同じ形であった。また同村周辺に伝承されているナニャドヤラという民謡は、日本語としては一切理解できないが、古代ヘブライ語として聞くと「お前の聖名をほめ讚えん、お前に毛人を掃蕩して、お前の聖名をほめ讚えん」と訳せるそうである。近くの「ドコノ森」という山には、ヘブライ語とも思われる文字が刻まれた石がたくさん発見されている。戸来村の「とらい」も、「へぶらい」が訛ったものだとも言われている。このキリスト伝来の伝説は冗談で片付けることは出来ないものなのだ。
 現在キリストの墓の横には、イスラエル大使館が立てた記念碑が建立されている。イスラエル国家がわざわざ日本の冗談に付き合うだろうか。ましてや、新郷村とエルサレムは姉妹都市でイスラエル大使も来村している。

 

 

怨念のブナの森(青森市・八甲田山 田代)

あちこちに悶え苦しんでいるようなブナがある
あちこちに悶え苦しんでいるようなブナがある

 また、近郊の森には奇妙なブナの森がある。ここ八甲田山の「八甲田雪中行軍」の「第2露営地」付近に奇妙なブナがたくさんある。何故か一様に苦しんでいるように見えるブナの樹がたくさんあるのだ。昔し兵隊さんがこの近くでたくさん凍死している。この事件を小説にした『八甲田山死の彷徨』(はっこうださんしのほうこう)は、世界山岳史上最大とも言われる犠牲者が発生した事件を題材としている。

頭に何か乗っているような・・・力学的には立っていられないはずだが・・・
頭に何か乗っているような・・・力学的には立っていられないはずだが・・・

 よく、昔に炭造りにブナを伐採したカブにヒコバエが生えてきてアガリコのようになると聞きますが、この一帯のブナはそれだけでない生態系を無視したような樹が多く見られる。このブナ林にはあちこちにギョリンソウ(ゆうれい草)も生えている。

 

 青森県八甲田山における山岳遭難事故を題材として新田次郎も執筆している。場所は、田代方向から八甲田温泉をちょっと過ぎた左手に車道からも見ることができる。昼でもブナ林で暗いのでますます不気味なのだ。諸説やご批判もあると思いますが、私は兵隊さんの怨念がこもっている「怨念の森」と呼んでいる。現代は化学の時代ですが、まだまだ人間たちの知らない不思議の世界がきっとあるのだろう。

  (道路脇の森なので車を降りてすぐ見ることができる)

ストーン・サークル(環状列石) 秋田県鹿角市大湯

国内最大の環状列石(ストーンサークル)
国内最大の環状列石(ストーンサークル)

 この地域の八戸の是川遺跡や三内丸山遺跡、秋田の鹿角市に日本一のストーンサークル(環状列石)がある。未確認飛行物体がよく現れるというクロマンタ(黒森山)など、高度な文化を持つ古代集落があったことが容易に推測できる。
 歴史的にみても、十三湊と言って、大陸との大規模な国際貿易港(湊)があった。シルクロードを通って隣りの唐までは、ユダヤ人がやって来ている。冒険心のあるユダヤ人の一部が日本に来ていてもなんら不思議はない。ひょっとすると、古代にイスラエルの地から追われた、十部族の一部がシルクロードの最終地日本の新郷村に来たのかも知れない。

 

 

クロマンタ(黒又山)ピラミット  秋田県鹿角市大湯

クロマンタ(山)
クロマンタ(山)

 黒又山は単に美しい稜線を描く小山という単純な理由だけではなく環大平洋学会の唱える「ピラミッドである条件」の「美しい三角形の山」「山頂まで徒歩で登ることができる」「周囲に秩序ある形式が祭祀施設が配置されている」などという条件の元見事に適中する珍しい山。
 中でも正確に東西ラインから22度離れた位置(冬至の日の出、日没ライン)に現存する祭祀場所があることが黒又山を山岳祭祀遺跡に位置付ける最も決定的な要因になたのは言うまでもありません
 鳳凰(火の鳥)を信仰する太陽の文明思想をも兼ね備えた太古十和田高原の人々は「生まれ」「滅びる」の自然の営みを冬至を夏至にそれを見てとても重要なポイントとして位置付けたと考えられる。

 

山頂部に巨石神殿跡

 

 1984年ごろに撮影された黒又山山頂にある薬師神社の写真がある。山頂部神社前には円形の現在の踏み石とその両脇の石組み、そし て神社を取り囲むフェンスのように何重かに配置された囲石組み。これは現在では見る事ができなくなった黒又山山頂の古代巨石神殿跡かと思われる。たまたま、その上に現在の神社が建っていますが、科学調査が行われる以前の貴重な写真です。
 当初から「今の薬師神社こそが黒又山山岳祭祀遺跡の中枢」と考えられ平成3年に行われた第一回クロマンタ総合調査の際に注目されました。その時の山頂部クリーニング調査(試掘含)で神社前の石組みらしき構造を調査したが、そこが山の中枢であることや様々な役目は発見したものの、それといった収穫はなかったと云われている。

(ストーンサークルの近くにあり登山も可能だ。頂上には神社が建っている)

 

 

十和田湖のキリストに見える石 (十和田湖・御倉半島)

 2011年11月23日。幸いに晴れて湖面も穏やかだったので、計画を実行することとなった。八戸市にある鳥谷部氏の家に午前7時に行き、車に同乗させていただき十和田湖に向かった。11月中旬には雪も降り釣りのシーズンも終わり、ボートも今日で引き揚げるという。
 御鼻部山には積雪が見え、紅葉も終わり山の樹は葉を落としていた。ボートでの走行は、風を受けるため顔が冷たくなり涙が出て来るので船のフードに隠れるようにして乗った。まもなく現地に到着した。近くには赤い肌をした大きい岩が見える。この周辺は、全て絶壁となっており、陸路では来れない場所であった。岸辺は湖水の波に侵蝕され所々岩に割れ目や穴のようなものがある。
 鳥谷部氏の指差す方向を見ると、岩の洞に何やら像のようなものが見えた。近づくとそれは正しく人の形に見えるものであった。
 長い衣と苔の髪をまとい、長いひげ、目鼻までそれらしく見える。見ようによっては、仙人かキリストの像のようにも見えた。自然が造った悪戯か奇跡のアートであった。

十和田湖の絶壁にある洞窟 (十和田湖・御倉半島)

 洞窟の入口には奉納「奥院」とあった。どこかのお寺か神社の「奥の院」ということか。洞の外側は、赤い岩となっている。あの絶壁の色と同じだ。そんなに堅い岩ではないようだ。この洞は自然が造った洞窟なのだろうか。ここの入口から鉄のハシゴが湖面に伸びている。手すりはまだ使用できそうなのだが、足場のハシゴは腐っているので使用できそうもない。
 洞窟内に恐るおそる入った私は一瞬息を吞んだ。何とそこには宇宙とも思えるような地層が、後輪のように祠の後ろにあるではないか。
 こんな色の地層があるものなのか。神が造ったとも思える世界があった。 これは描いたものではない。自然の力がこの地層を創り出したもののはず。写真には不思議な水玉のようなものまで写っていた。正に宇宙というイメージである。よく見ると、宇宙の星や星座に見える様々の色の小石が散らばってこの世界をつくり出しているのだ。
 私はここで目を疑いたくなる光景を見た。そしてある言葉を聴いたような気がする。それがあまりにも現実離れしていて奇人扱いされると思うのでここでは紹介しないでおく。また、この洞を入ってすぐ横にも穴と思われるものがある。落下した土砂に埋もれていてよく判らないが、就寝する場所なのだろうか。
 この地には、私たち以外にも、この洞窟の存在が聖なる地であることを気付いた人がいるのだろう。祠は比較的新しい時代の物と思われる。注連縄(しめなわ)などに使われる紙垂(しで)は、胴板で出来ているようである。お神酒や賽銭もあった。古銭はなく年月が経っているのか色が変わっている500円玉や、100円玉などもあった。その他はなにも無かったが、地表に積もった土を取り除けば何か発見があるかも知れない。ただこの洞は、住居とか作業所として使用されたという痕跡はまったく無く、祈りや修行のためだけの洞だったことは間違いないと思われる。

 

 この場所は陸からは到達できない。また、国立公園の中でも「特区」となっていて草や石一つ持ち帰ることができない場所でもある。観光連絡船からは遠目には見る事は可能だ。

 

詳しくは「十和田湖 謎の洞窟探検記」参照

2012年にこの洞窟を学者のみなさんと「学術調査」を実施する予定。

 

 

 

前方後円墳のような古墳か(二戸市)

 二戸市と田子町の境の付近の田んぼの真ん中にある。この古墳らしきものの両側には小川が流れている。回りを調べていると、この土地の持主らしい人が来て「ここは昔から神聖な場所として守られてきている所。勝手に入られては困ると言われた。石組みしたと思われる箇所もあった。

 

 


西光寺「奥の院」不思議な光 (階上町)

西光寺「奥の院」

不思議な光  

階上町

 

階上岳へ山野草をみにいったとき、ボーとした光が見えたのですが目の錯覚と思っていた。

データを見るとそのまま写っていたのでびっくりした。西光寺の住職さんも見てみたいというので写真を見せにいったら奥様と二人で感動していた。

 

 

ドロヤナギの光杯 (十和田市奥瀬)

 この日本一のドロノキは、十和田湖の山深い場所にある。看板などはなく、案内人がいなければ辿り着くことができない。

 巨木を撮影していると、ときどきこのような不思議な光が写る。私は下の方に皿のような光があることから「光杯」(こうはい)と呼んでいる。いまでに7〜8枚ある。特に大きな巨木を撮影するときに多く写るような気がする。(「神秘の巨木を訪ねて」参照)

赤漆塗りの遮光器土偶 (八戸市是川)

 土偶が出土した風張遺跡は八戸市庁から南方へ4・3㌖、新井田川の右岸に位置し、是川遺跡の対岸にある。

 

 北側を蛇行する新井田川と南西側の沢地に挟まれ、北西側に突き出した標高20~30mの舌状台地上に立地している。合掌土偶は、平成元年7月、長芋作付けによる緊急発掘調査で出土した。

 調査の 結果、縄文時代の早期・中期・後期、弥生時代、奈良時代、平安時代の遺構・遺物を数多く検出している。


 本遺跡の特徴は、縄文時代後期後半の大規模な環状集落が構成され、縄文後期の拠点的集落であること、遺物は住居内から完全な形のものが数多く出土し、縄文時代後期後半の集落構造や編年を考える上でも貴重な資料となっている。私も一個持っているが、八戸市の「縄文館」に行けば見る事ができる。

 

 また、亀ケ岡文化が生み出した遮光器土偶は、古代アラバキ族が日神・月神・荒吐神像として信仰したものという説もある。従来の歴史・考古学説によれば次のことがあげられる。

①原始的な母神として崇拝した神像説。②偉大な王国・族長に対する殉死土偶像説。③天変地変や人間の運命・国家の未来を占うための呪術用土偶説。④異国から渡来した女神像崇拝説。⑤太古時代に訪れた宇宙人説。などであるが結論は出ていない。